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サバーイディーボ |
 ひさしびさしにタイ映画を見てきました。
「sabaaidii luangprabang」
ラオス人の父とオーストラリア人の母を持ちつつも、育ちはタイというハーフの男前と、ラオスで生まれ育った素朴で清楚な卵肌との恋物語。
細かい話は実際に映画を見てもらうとして、なんだかホッとするような映画でした。
出演者の表情も仕草も、物語も、映像のなかにある景色も、なんだかほんわかほんわかしていました。 かといってだれた雰囲気はなく、終始清々しい空気に包まれた映画でした。
つい先日ラオスにいってきたのですが、そのときの感想は「うわ、もう、ホントいいや、ここ。」。 でも、この映画見ると、「いや、ちょっとよさげだな、ラオス」と思わせるので不思議なものです。
また、来週も個人的に期待を寄せているタイ映画が公開されるので、見にいってこようと思います。
そういえば、やっと最近、字幕無しでもほぼ意味がわかるようになってきた。 人間、耳慣れれば、全然知らない言語でもなんとかなるもんなんですね。
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ピットトゥームヤイ |

見てきました、「ピットトゥームヤイ」。 一言でいってしまえば「青春恋愛映画」です。
概要はここで。
で、この映画、オムニバスです(以下、上記サイトからの抜粋です。fukuさん、お借りしまっす)。
・1人の女の子に恋した2人の親友の姿を描いた三角関係の恋 ・台湾のアイドルに夢中になった女の子を描いたアイドルへの恋 ・同級生への女の子への片想いを描いた一方通行の恋 ・恋人がいるのに旅先で知り合った日本人の女の子に惚れちゃった浮気物の恋
最初は、ひとつひとつの物語が一話一話順をおって完結していくのかと思ってた。
したら、違ったね。 いやいや、やられました。
4つの物語に登場する音楽、時間、場所、空間が、ときに重なり合い、ときに離れ合い、同時進行していきます。
あまり書くとネタバレしちゃうので、ちょっとだけ。 例えば、ある物語でBGMとして流れた曲が、他の物語に切り替わると主人公の携帯着信音になってたり、それぞれの物語で遊びに行くディスコが同じだったり。
こういう作りの映画、大好きです。 いやぁ、やられました。
最後のシーンもね、ベタだけどやられた。
実際、観客全員が「おぉっ!!」って声をあげてどよめいてたからね。
ううん、もう一回くらい見に行っちゃうかも。
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宝石のなかの対称と距離 |
※現在タイで公開中の「PLOY」という映画についての感想です。 実際に見たあとでないと、意味プーな内容になってしまっています。 すまそん。。。
季節のない国のとある喫茶店。 扉と壁と窓とで外界と切り離された内側には、居心地の良い空間が作り出されている。
クーラーから吐き出される涼しい風。 耳に障らない音量のBGM。 コーヒーの芳しい香り。
深めの椅子に座りながら、窓越しにその外にある喧騒や灼熱を眺める。 人や車の往来さえ止まってしまえば、ボクの目には、それは額にはめこまれた絵のように映った。
冷涼と灼熱。
静寂と喧騒。
座と立。
内側と外側には、対称が相対していた。
その対称は、それぞれ端と端にあるのだが、どっちが良くて、どっちが悪いわけでもない。 それは対称である、ということであって、それ以上でも、それ以下でもない。
対称の距離と距離のあいだに横たわるもの。
それは風であり、熱であり、音であり、椅子であり、窓であった。
ペンエーク=ラッタナルアンの新作「PLOY」を観てきた。 表面的に見ると「等身大の男女の愛憎」がテーマとなりそうであるのだが、ボクは「対称と距離とそのあいだに横たわるモノ」の映画だと感じた。
あらすじは本作に任せるとして。
日常には対称がそこらかしこに転がっていて、その距離と距離のあいだは、そこに横たわるモノによって繋がれている。 そして、繋がれているからこそ、日常はバランスを均衡させ、それらを飲み込み時を進める。 ただし、その対称の距離が離れすぎていたり、横たわるモノが見つからなかったりすると、そこには非日常が顔をだす。
PLOYは、「夫」と「妻」という対称の距離のあいだに横たわるモノだった。 それは、「横たわって繋ぐモノ」としては、いささか配慮を欠く、どちらかというと過激で、それでいて確かに繋げるような存在だった。
離れすぎていたその距離は、非日常の介入を許さないと繋ぎようがなく、たまたま出会った横たわるモノは、PLOYという名の少女だった。
本作には、対称と距離、それを繋ぐ横たわるモノが随所に現れる。
光と影。 タイとアメリカ。 家とホテル。 表と裏。 片手と両手。 大人と子供。 錯乱と確信。 右と左。 疑惑と信頼。 白と黒。 外と内。 煙と灰。 夢と現実。 真実と虚栄。 睡眠と覚醒。 客と従業員。 少女と女性。 不安と安心。 孤独と寄添。 朝と夜。 晴と雨。 生と死。 直面と逃避。 単調と抑揚。 宝石と紙くず。
そこにはカーテンがあり、 飛行機があり、 非日常があり、 感情があり、 思い遣りがあり、 コーヒーがあり、 枕があり、 溝があり、 ポケットがあり、 光があり、 ガラスがあり、 ライターがあり、 猜疑心があり、 ソファーがあり、 603号室があり、 ネックレスがあり、 携帯電話があり、 バスタブがあり、 葬式があり、 タクシーがあり、 鉄パイプがあり、 ウォッカトニックがあり、 歌があり、 置き手紙がある。
そして、6と9を繋ぐ0。
「6」と「9」という対称。 そのあいだに横たわる、始まりの数字である「0」。
すべての物語の発端は、そういえば609号室で発生していた。
稜線を隔てて対称する物事は、そのあいだに横たわるモノによって繋がれている。 いや、「繋がれている」という受動だけではないのかもしれない。
横たわるモノをみずから探して、繋がることができる。
季節のない国のとある喫茶店。
深めの椅子に座りながら、窓越しにその外にある喧騒や灼熱を眺める。 人や車の往来さえ止まってしまえば、ボクの目には、それは額にはめこまれた絵のように映った。
窓の外にある太陽が放つ陽光は、窓の内にあるコーヒーに届く。 その賑々しい陽光は、それはそれは宝石のように、凛としたコーヒーのうえでキラキラと漂っていた。
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三流とC級 |
「Tenacious D」という映画を見た。 わざわざ超高級デパートのサイアムパラゴンに行って見た。
気になる存在のJack=Blackが主演ということ、題材が音楽であること、コメディー映画であることなどが、ボクを映画館に向かわせた。
内容は至極くだらなく、ミュージシャンである主人公と相方のオッサンが名声を得るため、ある伝説のピックを追い求めるといったもの。
造りが安っぽく、内容も貧相で、ひとつひとつがくだらなく造りこまれている。 完全に先の読める展開だし、スリリングであるべきシーンもどこか間が抜けていて落ち着いて見れてしまう。
いや、否定的な言葉を使っているが、決して否定しているわけではない。 その造りが、なんかこう、グッとくる。 くだらなくて、グッとくる。
ふと思った。
三流とC級って、同じような意味合いなのだろうが、ちょっとニュアンスが違うのかな、と。
「三流映画」というと、なんだか「無味乾燥で、なんの味気もない、つまらないだけの映画」ってイメージがある。 「三流大学」って言葉もあるように、「一流や二流には敵わない」ってニュアンスがあるような気がね、するんです。
でも、「C級映画」というと、「派手な装飾や、豪華俳優陣はないけれど、観客のターゲットを絞った、愛嬌のある映画」ってイメージがある。
つまり、「三流」には「悪い」というイメージがあり、「C級」には「(人によって)よい」というイメージがあるのかな、と。
実際、「C級映画好き」って人は結構いるし、それだけ愛されてもいるのだな、と。
ボクのなかで、この映画は「C級」だった。
だから、それはそれで楽しめたのだけど、唯一の失敗は、「パラゴンで見るべき映画ではなかった」ってこと。
「シェラトンホテルで吉野家の豚丼を食べる」のと同じことを、ボクはバンコクでしてしまったようです。
母さん、息子は元気でやってます。
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blue |
タイでも日本のマイナー映画がやっていた。 その名も『blue』。 あ、もしかしたらオレが知らないだけでマイナーじゃない?あまり詳しくないもので。。。
んでだ。
サイアムスクエアにあるLIDOでこの映画を見た。確か20時くらいからの最終回だったんだけど、客は20人くらい入っていた。 公開から1週間ほど経っていて、そんなに有名でなく、しかも最終回なのに、この人数は結構多いのではないかと思う。
話の内容はというと、まぁ説明が難しいので割愛します。
映画の雰囲気は結構ゆったりした感じで、台詞も少なく、流れている映像の静かな激高だとか、登場人物のさりげないしぐさだとか、そういったものに意味が込められていた気がした。
んで、この映画、何がびっくりしたかっていうと、映画が終わってエンディングロールが流れても誰も席を立たない!! いや、奇跡ですよ、これって。歌手の狩人が井上和歌とCMで競演しているくらい奇跡です。
というのも、タイでは映画のエンディングロールが流れると、なぜか皆さっさと席を立ち、映画館をあとにしてしまうのです。 「エンディングロールを眺めながら今見た映画を反芻しよう」なんて気はまったくない感じ。 最初これを体験したときは、憤りにも似た何かを感じざるにはいられませんでした。
が、この映画では、エンディングロールが流れても、誰も席を立たない!! こんな日本のマイナー映画をわざわざ見に来るような人には、そういう「反芻する心」があるのかもね。
映画と映画後で、二重に感動した夜、プライスレス。
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タイ映画「seasons change」 |
初めてタイの映画館へ行った。かねてから見たいと思っていたタイ映画「seasons change」を見に行くためだ。
見たいと思っていた、といっても、もちろん宣伝はタイ語のため、事前にどんな内容なのかはわからない。ただ、この映画のポスターを一目見たときに、「これは自分が好きなタイプの映画だな」と感覚的に感じた。
高校生か大学生と思われる男子一人と女子二人が、それぞれ楽器を手にして写っている。
青春恋愛学園モノ かつ 音楽モノ。
こういった類の映画は、往々にして展開がベタでわかりやすい。これならきっと、タイ語音声で英語字幕の映画でも理解できると思い、タイの映画館システムもよくわからないまま、意を決して足を踏み入れてみた。
まず映画館にはいって思ったことは、タイは映画という娯楽が高いレベルで定着しているなぁ、と感じた。 東京のお台場のようなシステムが、どこにいっても完備されているらしい。ひとつの館内に複数の劇場を抱えており、様々な映画が上映されている。全席指定席で、座席の幅・間隔ともにゆったりとしており、リクライニング様式になっている。しかも映画一本あたり100B〜150Bと値段も(日本の物価感覚からすると)格安だ。 タイの映画鑑賞環境の充実ぶりを羨んでいるうちに、会場の明かりが細くなった。
日本と同じく、本編が始まる前に近日公開予定映画の宣伝や、携帯電話の電源OFFを促す映像が流れる。その後、日本では本編になだれ込むのだが、その前に、タイでは国王の映像が流れる。流れている間、客は全員起立。直立不動でその映像が終わるのを待ち、2,3分の起立ののち、再び席につく。
そして、いよいよ本編の始まり。
予想通り、映画は青春恋愛学園モノ かつ 音楽モノであった。 以下、ボクの推測を含むあらすじ(タイ語も聞き取れんし、英語も読み取れん)。
天才バイオリニストの少女に恋をした凄腕ロックドラマーの少年ポム。彼はひょんなことから、彼女の進学先を知る。 なんとかして彼女と同じ学校に進んだポムだが、そこは音楽大学(or高校)であった。ポムの父親は、自分の息子が音楽の道に進むのを良しと思っておらず、ポムは音楽大学に通っていることを隠していた。
入学当初はロックバンドを組んでいたポムだが、バイオリニストの少女に近づきたい彼は、彼女が所属しているオーケストラに入り込み、ティンパニーを担当することに。
もう一人のヒロイン、絶対音感を持つものの楽器をうまく演奏できない少女オーム。 彼女もまたバイオリニストと同じオーケストラに所属しているのだが、どの楽器を演奏させても、うまくこなすことができない。 バイオリンはノコギリをひいているような音で、フルートからは突拍子もない音を出し、トランペットでは不協な和音を奏でていた。 ついにはシンバル担当を任されることとなってしまった。
彼女はポムと出会い、ポムの優しさや賢明さに、段々と心をひかれていく。だがポムはオームを友達としてしか見ておらず、彼はバイオリニストの少女との距離を徐々に縮め、親密になっていく。
やがてポムの両親に音楽学校へ通っていることがバレてしまう。 そして、自分の方を向いてくれないポムに対して苛立ちを募らせるオームも、ついには練習中にシンバルを投げ出し、教室を飛び出してしまう。 そんな問題が山のように押し寄せてくるなか、ポムの今後を左右するような出来事が彼の前に現れる。
ハンガリーへ音楽留学するための楽器テスト。
ポムの決断は?そして恋の行方は?
と、まぁ、こんな感じだと思う。
随所にコメディータッチな描写があり、ライトな感覚でテンポよく最後まで見ることができた。
ポムの決断に対し、それを支える友人や、葛藤する両深や、切なげに見守るオームなど、人間関係も丁寧に描かれており、温かい視線でキャラクター作りをしているなぁ、と感じた。
複雑に入り組んだ巧妙な物語ではなく、シンプルでありがちな先の読める物語なので、子供だましな映画だと感じる人ももちろんいるだろう。
が、青春恋愛音楽映画は子供だましなくらいで充分。この類の映画に大切な要素は「瑞々しさ」と「甘酸っぱさ」だ。 この二つの要素をあますところなく取り込んでいるこの映画は、見た後に清清しさを残すことができる「王道映画」といえよう。
青春恋愛音楽映画に複雑な事情は必要ない。 王道が王道足りえる要素と内容を備えたこの映画を、ボクはあと2回くらい見に行っちゃうかもしれない。
いや、ホント弱いんです、こういう映画。 「青春デンデケデケデケ」とか「School of Rock」とか。 いやぁ、映画ってホントに(以下、自粛)。
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